【荒川と鎌倉街道編】 いざ鎌倉! 鎌倉街道はどこを通っていた? ~荒川水系の変遷から探る人々のくらし~
“ブラブラ”Tellus を眺めながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラヒトシ」の第二弾。地形と山城・鎌倉街道の関係を紐解きます!
某大人気番組が大好きな地理オタクであるTellusメンバー・ヒトシさんが、“ブラブラ”Tellus を眺めながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラヒトシ」
第2回目となる今回は、Tellusメンバー5名と、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にゆかりのある地、埼玉県比企(ひき)地域を散策します。
あまりにも大ボリュームだったので前編と後編に分けてお届け!
※尚、本記事は土曜日19:30~放送される某大人気番組とは一切関係がありませんが、番組を愛してやまないメンバーでお届けしています。
今夜は奈良でブラヒトシ!~第一回:奈良が発展したのはなぜ?~
【メンバー紹介】
Tellusの営業マン
鉄人スポーツマンにして、熱狂的な地理オタク
Tellusビジネス企画担当
宙畑では編集部も担当し、ブラヒトシでは進行役を務める
地理も歴史も学校の授業では習ったけど、いまいち分かってない
日常のありとあらゆる場所で衛星データ活用の機会を窺っている宙畑編集長
歴史好きということで、今回参戦
【スペシャルゲスト】
中世の山城を愛してやまない衛星データのプロ
何かにつけては宙畑の無茶ぶりに付き合ってくださる、衛星データのプロ
【今回のガイド】
比企エリアの歴史に詳しい元自治体教育委員会職員
教員を経て、現在はむさし企画代表理事であり農場&牧場主
今回の旅の始まりは埼玉県鉢形駅。池袋から東武東上線を乗り継いで1時間ほど。
さて、ヒトシさん。第2回ブラヒトシ、ようやくフィールドワークが開催できましたね!今回は埼玉県鉢形駅がスタートということですけれども、この場所を選ばれた理由はなんでしょう。
※元々は2020年3月に実施予定のところ、コロナ禍の影響により長らく延期しておりました
えっ、ムタちゃん、知らないの!?
このあたりは荒川や鎌倉街道など、地理と歴史が密接に紐づいた、とっても面白いエリアなんだよ!今日はその時代のお城が大好きな松浦さんにも来てもらうからね~ 楽しみだね(ニコニコ)
なるほど、今日は鎌倉街道がテーマなんですね。
ちょうど今期の大河ドラマも鎌倉時代がテーマですし、楽しみです!
荒ぶる川「荒川」1000年の流路の歴史
まず、やってきたのは、「川の博物館」ですね。
埼玉県、東京都を通って東京湾に流れる一級河川・荒川を中心に、水と人々の関わりの歴史を学べる、いわば川のテーマパーク、なんですね…
ここで、僕の知り合いで比企エリアの歴史に詳しい、奥平さんと待ち合わせをしています。
こんにちは~、はじめまして
よろしくお願いします!
一同:
よろしくお願いします!
まず、みなさんにご紹介したいのが、こちらの荒川の源流域から東京湾までの地形を1000分の1の縮尺で再現した屋外模型です。
これはスゴい…。スケールの大きい模型ですね!
この模型を見ながら荒川の重要ポイントを解説していきます!
荒川は時代によって流路が変わる?
みなさんは縄文時代、実は、関東一帯が海の底だったという話を聞いたことがありますか?
おっ、縄文海進ですね!
ジョウモンカイシン…?
ヒトシさん、さすがです!
縄文時代前期には、温暖化により海面が数メートル上昇し、実は、関東平野の多くは海だったと言われています。
その証拠に当時の海岸沿いと思われる場所で、数多くの貝塚が見つかっているんです(上図黒丸で表示)。
へえ、こんなところまで海が来ていたんですね!
縄文時代とは地形が変わっているところもあると思いますが、Tellusで地形を見てみましょうか。
赤い色がついているのが標高が高い部分で青い部分が低い部分です。細かいところに違いはあれど、先ほど見た縄文時代に海だと考えられていた場所と、この地図での青い部分は似ていますね!
今、我々がいる比企丘陵は当時の海沿いだったと考えられているんです。
150万年前の荒川は、この比企丘陵よりもずっと南の飯能方面を通って海に流れていたと言われています。
江戸の大工事「荒川の瀬替え」
その後、海面が下がって海岸線が南東へ後退し、関東平野が生まれます。
約400年前、徳川家康が幕府を開いた頃の荒川は、大宮台地の東側を流れ、利根川と合流し、東京湾に流れ込んでいました(元荒川筋)。
利根川と合流とは…、ものスゴい水量になりそうだ…
そうなんです!
江戸時代に入ると、洪水防御、新田開発、舟運開発などを目的として、荒川から利根川を分離する付け替え工事が行われ、埼玉の平野開発や舟運の発達をもたらし、江戸の繫栄を支えることになったんです。
もし、この流路変更がなければこの東京付近一帯が栄えることは無かったかも知れませんね。
治水された荒川は、それでも江戸時代に度々氾濫を起こし、その氾濫を防ぐために人工的に流れを変えるということが度々行われました。
荒ぶる川「荒川」の歴史は、すなわち日本の治水の歴史でもあるんです。
今、私たちはこうして模型で俯瞰的に流路を見たり、それこそ衛星データなども使ったりして、どこを切り替えて、どう流そうということを考えることができますが、昔の人はそれを現場でやっていたのはスゴいですね!
大都市東京を守る、埼玉エリア
荒川は、川幅が日本一ということでも知られています。
埼玉県鴻巣(こうのす)市と吉見町をまたがる場所ですね。
ところで、この川幅で一番恩恵を受けているのは誰だと思いますか?
川幅が大きいことで恩恵……?
まったく分からない…
実は、川幅の大きさで一番恩恵を受けているのは東京23区に住んでいる人たちなんです。
もしかして遊水地の問題ですか?
そうなんです。
2019年の台風19号では、このエリアは端から端まで水でいっぱいになりました。
言い方は悪いですが、ここに水を溜めることで東京の人を守る。そのためには、埼玉県人が犠牲になれという……
そんなのあんまりだ……
ですので、この流域に住む人は少しだけ税金が安くなり、かつては一家に一艘、ボートを持っていたそうです。
江戸時代も、そうして水を溜めておく場所を作っていたと聞いたことがあります。
そういえば、鶴見川流域の新横浜公園は、日産スタジアム含めて氾濫を防ぐ遊水地になっているんだよね。
(参考)新横浜公園の多目的遊水地機能
https://www.nissan-stadium.jp/csr/safety03.php
鎌倉街道はここ比企エリアを通っていた?
さて、ここまで荒川の歴史を見てきましたが、ここからは今回の本題「鎌倉街道」との関係について見ていきたいと思います。
「鎌倉街道」って、そもそも、鎌倉時代に全国の武士たちが「いざ、鎌倉!」と馳せ参じた道ということで合ってますか?
その通り!主要幹線としての三本の道「上道」「中道」「下道」と呼ばれている道が存在したと言われているんだけど、具体的なルートは、まだ分かっていないところもあるんだよね。
鎌倉街道沿いに点在する山城
その鎌倉街道が、ここ比企エリアを通っていたということですか?
そうそう、それはね、同じ時代に作られたと言われている山城(やまじろ)の位置と、推定されている鎌倉街道の位置を重ね合わせてみると、よく分かるんだよ!
見てもらうと分かる通り、街道沿いに山城がたくさん点在しているでしょう!
山城というのは、そもそも、平地での築城技術が発達するより前の中世の時代に、元々の山の地形を活かして作ったお城のことなんだ。
比企地区を見ていきますと、約70もの城館跡を見ることができます。
先ほどの奥平さんの話にもあったように、比企は、関東平野からちょっと高くなっている場所だから、鎌倉街道沿いでもあるこの場所に、武士たちを含めた人々が移動して来て、鎌倉時代以降に監視や戦いのための城が立てられたんだね。
なるほど、比企の丘陵がここでも一役買って、交通の要所になったというわけですね。
実際に街に出て、鎌倉街道の痕跡を探しに行きましょう!
鎌倉街道はどこで荒川を渡ったのか:川越岩
奥平さんに先導され、荒川沿いの一見何もない畦道へ。ここは一体……?
みなさんに見てもらいたかったのが「あの岩」です。
実は歴史的にも重要なポイントだったんです。
なんの変哲もない岩に見えますが……
これは川越岩 (かわごえいわ)と呼ばれ、800年ほど前の鎌倉武士たちが川を渡る際に水位を測る目印だったと言われています。
岩の傍らに鎌倉街道の渡し場があったようですね。
まさか、この岩も史跡だったとは!
さて、ここでみなさんに問題です。この岩は、
A 秩父方面の上流から流れて来た
B 荒川の水の流れが地層を削り堀り、あのような状態で残った
C 畠山重忠が転がっている岩を投げた
どれだと思いますか??
(あきらかに一つおかしな選択肢がある...)
流れて来たのかな~? Aかな~??
あんなに重そうな岩が流れて来るかな~? そうするとBかな??
正解は、Cの「畠山重忠が転がっている岩を投げた」でした!
畠山重忠公と言えば、怪力で有名ですからね! この近くで生まれ育ったんですよ。
いやいや、正解を教えてくださいよ~!
分かりました。
正解は、嵐山史跡の博物館の栗岡館長に確認をしたんですが、Bの「川の流れによって削られてできた」という説が有力だそうです。
そうなんだ! 水の力って、ものスゴい!
言われてみないと分からないけど、歴史はポンと身近に転がっているんだな〜
更に鎌倉街道を南に進んで行きたいと思います!
二瀬
あたりには何も無いですが、ここはどういう場所なんですか?
何の変哲もない場所に見えますが、歴史的に重要な場所なんです。
「瀬」とは流れが急な場所を指し、ここ「二瀬」は2つの川が合流する地点になります。
左側が都幾川(ときがわ)で、ときがわ町方面から流れて来ます。
ときがわ方面からは豊富に木材を調達することができたと思われます。
右側が槻川(つきかわ)で嵐山渓谷や小倉城の方から流れて来ます。
上流の下里地区からは、木材だけではなく板碑の材料となる石材が調達できたと思われます。
合流すると都幾川になり、最後は越辺川へ合流します。
先ほど荒川で川を渡るための川越岩を見ていただきましたが、鎌倉や小田原といった南に向かう際、次に武士たちが渡らなければならない重要河川は、ここになるんです。
なるほど
先へ進むためには絶対に川を渡らなければならないし、川が深過ぎては馬も渡ることができません。
ましてや鎧武者としては体力を消耗しないよう、川を渡る回数は少なくしたかったはずです。
川を渡る回数は2回よりは1回の方がいいですね。
そのような理由から、川1本になるこの二瀬周辺を鎌倉街道が通っていたと言われています。
河川が1本になった所を通らせて便利とさせるのか、または2本通らせて不便とさせるのか、監視する側としてはどちらが得策なのか?…
川ひとつとっても、そうした想像ができるわけです。
今でも諸説あるんですね。
また、二瀬から見て、北東側には、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中川大志さんが演じられている畠山重忠公の本拠地である「菅谷館」跡があります。
また、南東には源義賢公(木曾義仲公の父)が暮らしていた大蔵館がありました。
館を突っ切ることは無かったと思いますので、先ほどの「便利」を優先した場合、「浅い」この合流地点(二瀬)か菅谷館の東側を鎌倉街道が通っていたと考えられます。
北から南へ向かう場合、2つの館の東西どちら側なのか、または間を通ったのかと考えなければならないということですね?
なるほど~
かつては、大蔵館から監視していたと思われます。
大蔵には今でも、大蔵館跡のすぐ東側に細い路地の街並みが残っているので、大蔵館の東側を通っていたのではないかと考えられています。
大蔵館が焼け落ち、その後、重忠公が住み始めてからは菅谷館から監視していたでしょうね。
それに「いざ、鎌倉!」という時は、飛ばして(スピードを上げて)行かなければならないんですよね?
そうですよね!そのため、可能な限り直線に近い状態にセッティングしたと考えるのが妥当だと思います。
弓馬の達人である重忠公が愛馬「三日月」に騎乗し、鎌倉殿のために本気を出したら、相当なスピードが出たと思いますね~
当時、大きな川や大きな道路といった交通の要衝(ようしょう)を押さえることは、とても重要なことだったのです。
要衝とは、軍事的・交通・商業などの上で大切な地点のことを言います。
義賢公も重忠公も、ここを拠点に暮らしていたのは、2つの川と鎌倉街道がクロスする、まさに交通の要衝をおさえることができたからだと思います。
山の中に残る鎌倉街道
突然車を停めて林道をスタスタと歩き出す奥平さん。
辺りは何もなく、日も傾いてきて心細い。
すがるような気持ちで、一同、奥平さんの後を追い掛けます。
この畦道(あぜみち)は、いったいどんな歴史が……?
今、みなさんが歩いている道が鎌倉街道(上道)です。
最後に、ここだけはお見せしたいな~と思いまして
ここが鎌倉街道なんですか!?
この街道が通る将軍澤という地名は
「平安時代初期に征夷大将軍であった坂上田村麻呂を祀った大宮権現社がある」
または
「平安時代中期に鎮守府将軍であった藤原利仁が休んだ塚がある」
という説に由来して名付けられたと言われています。
今、みなさんが立っている場所は、何にもない場所に思えるかも知れませんが、多くの先人が歩いた道であり、鎌倉に向かって全速力で駆け抜けた畠山重忠公が通った道でもあります。
実際に歩いていただき、思いを馳せていただくと、積み重なった歴史を、より身近に感じることができたのではないでしょうか?
先人が歩いた道を、今、歩いていると思うと感慨深いですね。
さて、前編では鎌倉街道と荒川の関係について、ぶらぶら街歩きをしながら掘り下げてきました。
後編では、この街道沿いにある山城についてさらに詳しく見ていきたいと思います! お楽しみに~!