宙畑 Sorabatake

宇宙ビジネス

空に魅せられて。アポロ計画と繋がる6人のグライダー乗り

アポロ11号の月面着陸50周年を記念した連載企画の第11回目では、空の魅力にとりつかれ、飛行の危険を顧みず挑戦し、フロンティア(最前線)を拓いてきた6人の人物をご紹介します。「グライダー」というキーワードを切り口に、過去から現代に続く挑戦の壮大なつながりをみてみましょう。

アポロ11号の月面着陸50周年を記念した連載企画の第11回目では、空の魅力にとりつかれ、飛行の危険を顧みず挑戦し、フロンティア(最前線)を拓いてきた6人の人物をご紹介します。「グライダー」というキーワードを切り口に、過去から現代に続く挑戦の壮大なつながりをみてみましょう。

アポロ計画を「グライダー」という視点で探ってみると、サターンロケット開発の指揮をとったヴェルナー・フォン・ブラウン博士を中心に、5人の人物のつながりが見えてきます。彼ら彼女らは全員、空の魅力にとりつかれたグライダー乗りたちでした。彼らは空への憧れを原動力に空から何を学び、その学びをどのように人生や飛行プロジェクトに活かし、また新たな挑戦を生み出してきたのでしょうか。6人の人物とプロジェクト相関図をまとめました。

人物とプロジェクト相関図 Credit : sorabatake

人物その1:余生はグライダー飛行を楽しんだ宇宙飛行士「ニール・アームストロング」

人類初の月面着陸を成し遂げる前、ニール・アームストロング船長はロケットエンジンを搭載した高高度極超音速実験機X-15を操縦するテストパイロットでもありました。しかし、後年は飛行の原型とも言われるグライダー飛行を楽しんでいたことはご存知ですか?グライダーとは、エンジンが付いていない飛行機のことを指します。上昇気流にのって旋回し、風の力だけでときには何時間、何百キロメートルも空を飛ぶことができます。

グライダー(滑空機) Credit : sorabatake

アームストロング船長が出演している映像を見てみましょう。「グライダー、つまり滑空機は空を飛ぶ素晴らしいマシンです。鳥みたいに空を翔ぶのに最も近い方法です」と、笑顔を見せています。インタビューでグライダー飛行から何を得ているのかと問われると、「気持ちを満たしてくれます。達成感をもたらしてくれます。自分でできることの限界を、もう少しだけ広げてみることができます」と、答えます。いろいろな飛行機を乗りこなし、地球から月までの往復という究極のフライトを成し遂げた後、アームストロング船長がたどり着いたのはグライダー飛行でした。

滑空機を操縦するニール・アームストロング船長 Credit : WindyCitySoaring

人物その2:アポロ計画サターンロケット開発の指揮者「ヴェルナー・フォン・ブラウン」

アポロ計画で使われたサターンロケット開発を主導したのはフォン・ブラウン博士です。第二次世界大戦でサターンロケットの前進V2ロケットがロンドンへ命中した際、博士は「ロケットは完璧に作動した。だが、間違った惑星に着地した」と言葉を残しています。実は博士もグライダー乗り。ドイツのリーゼンゲビルゲ山脈の麓に位置する町、ヒルシュベルクの近くにあるグルナウ(現ポーランドのイェジュフ・スデツキ[Jezow Sudecki])にある滑空場で飛行訓練を受けていました。(*1,2)アメリカ亡命後もメリーランド州のカンバーランド、ニューヨーク州のエルマイラなどで週末はグライダー飛行を楽しんでいたことが知られています。(*2)

リーゼンゲビルゲ山脈の麓、グルナウの風景 Credit : Hangflygning.se

グライダー発祥の国はドイツです。1909年頃からダルムシュタットの学生たちが機体を作りはじめ、1910年にはレーン高原のワッサ―クッペを見つけ、飛行が行われました。(*3)1919年、第一次世界大戦で締結されたヴェルサイユ条約により、敗戦国ドイツでは動力付き飛行機の所有が禁止されました。1920年には空軍部隊も解散され、さらに飛行機の生産も停止させられました。(*4)しかし、連合国の政治家たちは、動力が付いていないグライダーには制限を課さなかったのです。

1920年8月、6年間で2,000回にも及ぶ試験飛行を18の自作機で行い、滑空の基礎を築いたドイツ人のオットー・リリエンタールの命日に第1回滑空競技会がワッサ―クッペで開催され、グライダーはスカイスポーツとしても親しまれるようになりました。(*5,6)1928年になるとバリオメーター(昇降計:機体の上下方向の速度を示す計器)が発明され、空気の上下運動が検知できるようになり、丘陵地帯の斜面に沿った上昇気流だけでなく、大地が熱せられて発生する熱上昇風を利用した飛行も行われるようになりました。

ドイツには1927年に創業した老舗滑空機メーカーのアレキサンダー・シュライハー社などがあります。創業から1945年までに1,032の機体が製造され、2015年までにはモーターグライダーも含め約9,300機が生産され、世界の大空を羽ばたいています。(*7)

オットー・リリエンタールのスケッチ Credit : Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst

人物その3:ドイツから世界にグライダーを広めたパイロット兼設計者「ウォルフ・ヒルト」

「日本のワッサークッペ」と呼ばれている場所があります。それは、日本のグライダー発祥の地として知られている、長野県諏訪市にある霧ヶ峰です。標高は1,680メートル。夏場でも涼しい爽やかな風が吹きわたります。某電機メーカーのルームエアコンの製品名にも「霧ヶ峰」が命名されていますね。

霧ヶ峰滑空場(1) Credit : sorabatake

1932年、藤原咲平先生(元中央気象台々長、元東京大学教授)が「霧ヶ峰グライダー研究会」を創設しました。1935年、世界一流のグライダーパイロット兼設計者のウォルフ・ヒルトが来日し、霧ヶ峰はドイツのグライダー発祥の地ワッサ―クッペに匹敵する素晴らしい滑空場であると絶賛し、この草原で操縦することができる人は幸せだと伝えました。(*8)

ヒルトは25歳のとき、オートバイ事故で重傷を負い、左足は義足でした。そんな困難にも関わらず、1935年にはワッサ―クッペのレーン大会で自工場で作った「ミニモア1号」を操縦してチェコまで420キロメートル飛び、ヨーロッパ、アメリカ、南アメリカ、南アフリカ、日本でグライダー普及活動に貢献しました。

霧ヶ峰滑空場(2) Credit : sorabatake

1945年、第二次世界世界大戦のポツダム宣言の受諾により日本ではグライダー飛行が禁止され、当時霧ヶ峰の機体、訓練機材、格納庫も焼却されてしまいました。日本の航空が再開されたのはサンフランシスコ平和条約の発行に伴い航空禁止令が解けた1951年のことです。なお、ドイツも第二次世界大戦後、航空活動が禁止されていましたが、1951年5月に飛行解禁となり、ワッサ―クッペには5万のグライダー愛好家が集まって再出発を祝い、15機のグライダーが大空に舞ったと記録されています。(*3)

霧ヶ峰滑空場(3) Credit : sorabatake

世界初のグライダー滞空記録は9分45秒。1911年10月24日、世界で初めて動力飛行機を発明したライト兄弟の弟オーヴィルが橋に用いるトラス構造を取り入れた複葉グライダーにより、米国ノースカロライナ州キティホークで記録を作りました。その記録が更新されたのは10年後の1921年8月30日。ドイツのワッサ―クッペでウルフギャング・クレンペラーが「青いねずみ」の名称をもつ機体で13分滞空しました。日本の霧ヶ峰では1934年、鵜飼照彦教官が16分30秒飛び、グライダーが広く日本で認識されるようになったと言われています。(*8,9)

人物その4:フォン・ブラウン博士と親友だった女性パイロット「ハンナ・ライチュ」

ドイツの「アメリア・イアハート(1932年に単独大西洋横断飛行を成功させたアメリカ人女性)」と呼ばれるハンナ・ライチュという女性がいます。20歳のとき、ウォルフ・ヒルトが代表だったグルナウの滑空場で飛行訓練を開始しました。そう、奇しくも一緒に飛んでいたのは、当時19歳のフォン・ブラウン博士です。以来、彼らは生涯の友であり、自伝では彼女が月に行ったニール・アームストロング船長と会ったことも紹介しています。(*2,10)

ハンナ・ライチュは1934年、アルゼンチンに渡航し、女性初、世界で25番目の国際滑空記章銀章(条件:直線50キロメートルの飛行、1,000メートル以上の獲得高度、5時間以上の滞空)を取得しました。1936年には、グライダー飛行の安全を向上するダイブブレーキ(減速・降下時に使われる装置)の開発実験に参加。1937年、ナチスドイツ総統ヒトラーが彼女を世界初の女性機長として任命し、世界初の女性としてヘリコプターも操縦しました。1943年には女性初としてロケットエンジン搭載機で飛び、1944年にはジェット機を操縦、1945年4月26日にはソビエト軍の対空砲火を潜り抜けて包囲されたベルリンのヒトラーの元へも飛んだ勇敢な女性です。(*11)

グライダーのダイブブレーキ Credit : NPO法人学生航空連盟

第二次世界大戦後の1952年、唯一の女性競技者として、スペインで開催されたグライダー世界選手権で3位入賞。1956年に飛行距離370キロメートル、1957年に高度22,467フィートを記録。1972年、アポロ計画にも深く関わったSETP(実験機テストパイロット協会)の名誉会員ともなりました。1975年、アメリカのロサンゼルスにて宇宙飛行士とテストパイロット含め約1,200人の前で講演を行い、数分間にわたって続く拍手喝采を浴びました。(*4)ヒトラー政権のプロパガンダ(政治的宣伝活動)に利用されたこともあり、誤解されることも多い女性ですが、自伝では次のようなメッセージを伝えています。(*10)

“We flying people of the world have an important task: to carry back to earth what we experience high above. Up there, there are no frontiers, no nations, no languages - up there, everything is part of a unity. The loneliness of flight in this vast emptiness has made our souls brothers. May flying people help the cause of world peace.”

「空を飛ぶ人には使命があります。それは、上空で経験したことを地上に持ち帰ることです。上空では、国境、国、言語の区別がありません。上空では、すべてが全体の一部です。なにもない広大な空間のなかで感じる孤独は私たちの魂を兄弟のような絆で結んでくれます。空を飛ぶ人が世界平和の一助となる使者となりますように」

人物その5:フォン・ブラウン博士に影響を受けた熱気球の探検家「ベルトラン・ピカール」

スイス人のベルトラン・ピカールは1999年、熱気球「ブライトリング・オービター3号」による世界初の無着陸一周飛行を成し遂げました。2001年以降、太陽光エネルギーのみで駆動する飛行機による世界一周を実現するプロジェクト「ソーラー・インパルス」にも挑戦しています。著書『空の軌跡(UNE TRACE DANS LE CIEL)』(翻訳:シドラ房子、小学館、2016年)では、熱気球による冒険の物語をつづっています。

ブライトリング・オービター 3号 Credit : bertrandpiccard.com

彼とアポロ計画には、実は繋がりがあります。お祖父さんオーギュスト・ピカールも有名な気球飛行家・深海探検家でした。お祖父さんの功績で、少年のピカールは関係者席からアポロ計画のロケット打ち上げを見学しました。そこで、フォン・ブラウン博士と出会い、次のように話し掛けられました。「僕は学生のときに君のお祖父さんの講義を聴いて、固く決心したんだ。将来きっと有人宇宙船を月に送るぞって」ピカールは自身の使命を果たした博士に感動したことを自伝で述べています。ちょっとしたきっかけが少年の冒険者魂に火をつける。その志は着実に次世代に受け継がれています。

エマージェンシー(周波数121.5MHz 国際航空遭難信号発信機)付きオービター 3号限定モデル Credit : BREITLING、sorabatake

本では世界一周に挑戦するとき、イラク首都バグダッドの上空を通過するとき、イラク戦争により米国に数時間後に爆撃されるかもしれないにも関わらず、「幸運を祈る」と現地の航空管制官から上空通過許可が与えられた感動エピソードなども紹介されています。「人生の最もすばらしい贈り物は、往々にしてみすぼらしい紙に包まれ、結び目だらけのより糸で縛られてくるものらしい」、「勝利を測るのは、何を受け取るかではなく、何を与えるかによる…」、「情熱を失うくらいなら、情熱のなかに自分を失うほうがよい(哲学者キルケゴール)」など、心に響く言葉が数多く散りばめられています。ぜひ本をお手にとってみてくださいね。

人物その6:マーキュリー計画も提案したパイロット兼気象学者「ヨッキム・キュットナー」

ヨッキム・キュットナー博士は有名な気象学者です。1933年、旋回をしていないのに上昇するグライダーにウォルフ・ヒルトが気付き、山岳波が発見されました。それをきっかけに、キュットナー自身も1937年に高度22,310フィートまで山岳滑翔を経験し、1939年に山岳波について博士論文をまとめています。(*12)第二次世界大戦中、当時世界最大の滑空機に6基のエンジンを付けて改良し、200人輸送できたメッサーシュミット社のMe 323 Gigantの試験飛行にも携わりました。しかし、半分ユダヤ人の血が流れるため博士はナチス政権から度々問題視され、飛行が制限されることもありました。そんな博士を擁護していたのが、先にご紹介したハンナ・ライチュでした。あるとき、試験飛行中に機体が空中分解し、パラシュートで脱出。九死に一生を得て、フライトは当分こりごりだと考え、博士はドイツ最高峰のツークシュピッツェ山にこもって大気の研究に従事することを決意しました。

巨大山岳波が発生する雲(1952年3月) Credit : National Soaring Museum

やがて博士はアメリカに移住。1950年代は、商業航空で大型レシプロ旅客機ダグラスDC-6やDC-7、ロッキード社の4発大型プロペラ旅客機コンステレーションなどが高度25,000フィート以下で飛んでいた時代でした。高度30,000フィートでの定期便を実現するため、博士は米空軍実施の「シエラ山脈山岳波プロジェクト(1951-1952年)」と「ジェット気流プロジェクト(1955年)」に携わり、山岳波の発生メカニズム解明と山岳波とジェット気流の相互作用に関する研究に打ち込みました。前者のプロジェクトではグライダーで高度22,300フィート、後者では1955年4月14日に高度42,700フィートまで達しています。研究成果では山岳波が成層圏まで達することが分かりました。また、航空計器マクレディ・リング(その時の状況に応じた最適な飛行速度を示す計器)の開発者としても知られるポール・マクレディによって、ときに山岳波が高度65,000フィートまで達することも指摘されました。研究功績が認められ、1955年にはリリエンタール・メダルを授与されています。(*9)

リリエンタール・メダル Credit : FAI

また、博士は1958年、アポロ計画の前進である人類初の有人宇宙飛行を目指すマーキュリー・レッドストーン計画を指揮し、アポロ計画ではシステムインテグレーター(システムを統合する技術者)としても活躍しました。そして、知識と経験を総動員して後年貢献したのが、エアバス社が後援しグライダーで成層圏高度30キロメートルに挑戦するPERLANプロジェクトです。このプロジェクトのパイロットには、単発ジェットエンジン機「ヴァージン・アトランティック・グローバルフライヤー号」による世界初の無給油単独世界一周飛行を成し遂げたスティーブ・フォセットやアメリカ人で初めて宇宙旅行をしたデニス・チトーも参加しています。

地球の大気(イメージ) Credit : sorabatake

高度30キロメートル付近は、航空界では「棺桶の領域(coffin corner)」として知られています。高い高度でグライダーの上昇を保つためには飛行速度を遷音速に近づける必要があります。しかし、それ以上だと音速に近づき、機体を破壊させてしまいます。一方、速度を落としすぎると失速速度に近づいてしまうため、狭い速度制限領域での注意深い操縦が必要です。また、高度30キロメートルの希薄な気圧条件は、実は火星の大気と似ています。PERLANは将来の有人火星探査も見据えた取り組みでもあり、海外の科学者やエンジニアはこの点に着目しています。(*13)プロジェクトの詳細は、次の記事もぜひご参照ください。

こんな人たちも空のサーファー!

最後に、世界で有名な空のサーファーをご紹介します。例えば、旅客機パイロットには、1983年、カナダのギムリー空港に滑空状態で旅客機B767を着陸させたロバート・ピアソン機長、2009年、USエアウェイズ1549便を不時着水させ、乗員乗客155人の命を取りとめ「ハドソン川の奇跡」を起こしたチェズレイ・サレンバーガー機長などがいます。

X-15計画をまとめ、民間宇宙飛行を目指す有人宇宙船「スペースシップワン」のテストパイロット役も担ったマイク・メルビルもグライダーパイロットです。宇宙飛行士ではマーキュリーセブンのアラン・シェパード、スペースシャトル女性初コマンダーのアイリーン・コリンズ、スペースシャトルコロンビア号事故で亡くなった女性飛行士のカルパナ・チャウラ、ハッブル望遠鏡修理ミッションに参加した医師パイロットのストーリー・マスグレイブ、国際宇宙ステーションで歌手デビッド・ボウイの『SPACE ODDITY(スペース・オディティ)』を歌い話題になったクリス・ハドフィールドなども空のサーファーです。

他にも、グライダーの飛行シーンで有名な映画『華麗なる賭け(The Thomas Crown Affair)』に出演し、私生活でもグライダーを操縦した俳優スティーブ・マックイーンなどもいます。世界には推計で約10.7万人のグライダー愛好者がいると言われています。(*14)この中から今度はどのような挑戦が誕生するのか、とても楽しみですね。

目指せ空のサーファー! Credit : NPO法人学生航空連盟

今回はグライダーという切り口からアポロ計画を振り返ってみました。6人の登場人物に焦点をあてると、グライダー飛行を通じて培われた知識や志が、アポロ計画や現代の挑戦につながっている壮大な物語がみえてきます。より高く、遠くを目指す人類の好奇心と探究心は果てしなく続いていきます。

(参考)
(1)Smithonian, Grunau Baby II B-2, https://www.si.edu/object/nasm_A19600320000 (2020年2月28日現在)
(2)Wernher von Braun, Erik Bergaust, Stackpole Books, 2017
(3)日本グライダー史、佐藤博、木村春夫編、海鳥社、1999年
(4)ナチスの女たち-第三帝国への飛翔、アンナ・マリア・ジークムント著、西上潔訳、東洋書林 、2009年
(5)現代体育・スポーツ体系28 登山・フィッシング・スキンダイビング・グライダー他、講談社、1984年
(6)The Otto Lilienthal Medal -Awarded to the Czech Republic for the First Time-, Vladislav Zejda, Vydal, 2008
(7)Rhon-Adler Three Generations Alexander Schleicher Segelflugzeugbau, Peter F. Selinger, 2015
(8)諏訪市霧ヶ峰グライダーふれあい館資料 グライダー発祥の地 <霧ヶ峰>
(9)Exploring the Monster – Mountain Lee Waves: the Aerial Elevator, Robert F. Whelan, Wind Canyon Books, 2007
(10)The Sky My Kingdom -Memoirs of the Famous German World War 2 Test Pilot-, Hanna Reitsch, Casemate, 2009
(11)ナチスの女たち-秘められた愛、アンナ・マリア・ジークムント著、平島直一郎+西上潔訳、東洋書林、2009年
(12)Soaring Beyond the Clouds -Einar Enevoldson Reaches for 100,000 Feet-, Bertha M. Ryan, The Soaring Society of America, Inc., 2010
(13)Treading on Thin Air – Atmospheric Physics, Forensic Meteorology, and Climate Change: How the Weather Shapes Our Everyday Lives, Elizabeth Austin, PhD, Pegasus Books, 2016
(14)WORLD GLIDING STATISTICS, John Roake, 2012

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