プラネタリーヘルス実現に向けた衛星データを利用した取り組みとは
生物多様性のみならず、地球そのものがどのような状況にあるのか考える際に挙げられるキーワード「プラネタリーヘルス」です。プラネタリーヘルスとはどのような概念なのか、そしてプラネタリーヘルスに関連してどのような取り組みがなされているのか三菱UFJリサーチ&コンサルティングさんにお話をお伺いしました。
”生物多様性”に関連する取り組みである「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」が本格的にスタートしようとしている2023年。
生物多様性のみならず、地球そのものがどのような状況にあるのかについての興味関心が増しています。この地球の健康を考える際に挙げられるキーワードが「プラネタリーヘルス」です。
プラネタリーヘルスとはどのような概念なのか、そしてプラネタリーヘルスに関連してどのような取り組みがなされているのか、三菱UFJリサーチ&コンサルティング(MURC)の小柴氏と畠山氏にお話をお伺いしました。
小柴 巌和さん
三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社 調査・開発本部 ソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部 部長 兼 Head, Center on Gobal Health Architecture
畠山 航也さん
三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社 調査・開発本部 ソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部 グローバルヘルスコンサルタント
— まず、プラネタリーヘルスとはどのような概念なのでしょうか?
畠山:プラネタリーヘルスとは「地球規模の環境変化が生物の生息域変化や人々の健康に影響を及ぼしていることが徐々に明らかになっている中で、それらを一体的に捉えて対策を打つという考え方」と言われています。
宙畑メモ:プラネタリーヘルスとは
プラネタリーヘルスという用語はランセット誌の主任編集者であるリチャード・ホートンにより、“From public to planetary health: a manifesto(2014)”の論文内で初めて活用され、2015年にロックフェラー財団と共同して「RockefellerFoundation-Lancet Commission on Planetary Health」を立ち上げたことで、世界的な広がりを見せています。
自然を顧みない人類の開発により地球温暖化、大気汚染、海洋酸性化、森林破壊などの発生や助長が問題視されています。
これら地球規模の課題、つまりは地球の不健康状態が人間の健康リスクを悪化させることが近年エビデンスをもって証明されるようになってきました。
例えば気温上昇によって、心筋梗塞や肺炎、下痢症などの既存の疾患リスクが高まると言われています。
※気になる方は以下の論文等をご覧ください
Whitmee, S,(2015) Safeguarding human health in the Anthropocene epoch: Report of the Rockefeller Foundation-Lancet Commission on planetary health. In The Lancet (Vol. 386, Issue 10007, pp. 1973–2028).
このように地球と人間は相互依存関係にあるという前提の下で、人間と地球の健康の両方を一緒に考えていこうという取り組みがプラネタリーヘルスです。
プラネタリーヘルスはこれまでのグローバルヘルスをさらに発展させた健康概念です。異なる部分としては、健康の対象が人間から地球全体へと拡大したこと、持続可能性という観点で健康を捉えることで将来や次世代の健康という時間的要素が追加されたこと、途上国だけでなく先進国も含めた全世界共通の医療課題を解決する動きであること、健康を切り口として多分野・領域との協働により課題解決を図ることなどが言えるでしょう。
宙畑メモ:グローバルヘルスとは
グローバルヘルス(国際保健)とは、世界の国々が抱える感染症や生活習慣病、母子保健、栄養問題などの種々の健康問題の解決、または国や地域間にみられる健康格差是正への取り組みや研究・学問を指す。
小柴:現在は地球温暖化や大気汚染と健康の関係性に関心を持って動いている方が多いと感じます。
例えば、プラネタリーヘルスを推進しているハーバード大学のSamuel Myers氏からは、地球温暖化でCO2濃度が高くなっていくと、特定の農作物の栄養素が不足すると伺ったことがあります。
世界的に見ると低栄養や飢餓の問題に直面している人はまだまだ多い中で、農作物の栄養素が不足するということは、このような人たちの健康リスクが今後より高まる可能性があることを意味します。
野菜の生育状況に温暖化の影響がどの様に関わってくるのかを今後見ていく必要があると感じており、ヘルスケアに関わる人間としても関心が高いです。
プラネタリーヘルスに関しては国際機関の中でも注目度が高まっていて、例えばUNFCCC(気候変動に関する国際連合枠組条約)であったり、WHOも2022年はOur Planet, Our Healthというテーマでプラネタリーヘルスを取り上げだしました。
— とても大切な考え方ですね。持続的に取り組むという観点からも、なんらかの形で事業化できると良さそうです。プラネタリーヘルスに基づいた事業にはどのようなものがあるのでしょうか?
畠山:人間と地球の健康の両方に寄与する事業が該当するでしょう。
例えば、マングローブは一般的な木々と比較し最大50倍多くのCO2を貯蔵できるのですが、シーコロジーという環境保護団体は、現地住民に対してマングローブ保護に関連した生計訓練とマイクロローンを提供することで、経済的安定性の向上、栄養と健康の向上、高潮に対する回復力の向上、地球温暖化の改善に貢献しています。
インポッシブルフーズという食品会社は、肉製品の市場需要に取って代わる植物ベースの代替肉を提供することで、生活習慣病対策や水資源の保全、CO2削減に貢献しています。
日本での動きはまだ少ないものの、長崎大学が中心となってプラネタリーヘルスの普及に取り組んでいます。
例えば2020年に「プラネタリーヘルスに貢献する大学」を目指す宣言を行い、カリキュラムにプラネタリーヘルス科目を組み込むことで次世代の教育や専門人材育成であったり、研究分野では産学官金が一体となって地域と地球規模の課題解決の実現に取り組んでいます。
小柴:近頃プラネタリーヘルスという用語が広まってきたことによって、これまであまり注目されていなかった分野、例えば栄養と温暖化の関係や保健分野への衛星データ活用等が進展していくのではないかと感じています。
他にも、国内の動きでブルーオーシャンイニシアティブの立ち上げは興味深いものです。直接観測可能な陸上生物の多様性は従来から注目されていました。
しかしながら、海洋生物の場合は、漁業で禁漁期間のようなものは設定するものの、基本的には天然資源を搾取し続ける構造になっており、陸上生物ほど生物多様性への対応が進んでいません。
日本でも近大マグロ等の養殖の事例は出てきているものの、まだ一部の動きでしかありません。天然資源の状況がそもそもよくモニタリングできていないという課題認識があって、ここを解決していこうとブルーオーシャンイニシアティブでは取り組んでいくと聞いています。
— プラネタリーヘルスに関連して、貴社ではどのようなことに取り組まれているのでしょうか?
小柴:まずは私たちのチームのことを少しお話させてください。
私たちが所属する三菱UFJリサーチ&コンサルティングは、三菱UFJフィナンシャル・グループの総合シンクタンク・コンサルティングファームです。経営コンサルティングビジネスやパブリックセクター向けの政策立案・政策の実行支援をする事業がメインビジネスです。
私たちはソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部に所属しているのですが、上述の基幹事業の横で、10年後の新たなビジネスとして、今後どういうことを手がける必要があるかを考えることがミッションになっています。
特に私たちのチームは、グローバルヘルスやプラネタリーヘルスというキーワードで、日本と世界に存在している健康・ヘルスケア関連の様々な課題に対する新しいソリューション提供に取り組んでいます。
グローバルヘルス関連では、新型コロナウイルスのような感染症対策や生活習慣病(NCDs:非感染性疾患)に関連した取り組みに携わっています。
我々は病院のように治療そのものを提供するのではなく、医療機器や新たなソリューション開発を関連分野のメーカーやアカデミアと共創することで、ソリューションやそれが活きる環境を創ろうとしています。
また、プラネタリーヘルス関連では、最近国内外でも注目が高まっている予防・未病と呼ばれる領域に、デジタルテクノロジーやデータ活用を通してどういう貢献ができるかといった観点での新規事業開発にも注力しています。
例えば、人工衛星データと保健医療データを組み合わせることで大気汚染や気温変化をモニタリングしながら疾患リスクアラートを発令するシステムを構築する事業をインドネシアで進めようとしています。
他にも、オーラルケア(口腔)領域では、メーカーと連携して歯磨きを通して得られる口腔データを活用して全身疾患との関係性をより高精度に予測できる仕組みを構築しようとしていたり、メンタルヘルス領域では、VR用ヘッドアップディスプレイを用いて、子供向けのメンタルヘルスや発達障害サポート事業を官民連携で取り組もうとしています。
— グローバルヘルス分野において、データ活用に興味を持たれたきっかけはあるのでしょうか?
小柴:衛星データの利用に関しては、最初は感染症対策の事例から関心を持ちました。
2015年頃、カナダでの国際会議に参加した際にAIMEというマレーシアのスタートアップ企業チームに出会ったことがきっかけです。その企業は、蚊が媒介するデング熱という感染症の拡大予測をするシステム開発を試みていました。
彼らは予測精度を高めるために、衛星データや風速、風向き、気温、日照状況、降雨量、湿度、建造物の工期データ等と、その地域の過去のデング熱の広がりに関するデータを掛け合わせていたのです。
ペナン島という工業都市で実証事業を1年半程度した後には、3ヶ月先の感染状況を90%強で予測できるようになっていました。その後マレーシアの保健省に評価され、同国内の10ヶ所の地域への導入が決定しました。
— 面白い取り組みですね。衛星データを用いる前にはどのようにしてデング熱の課題に対応していたのでしょうか?
小柴:他の国々と同じく、現地エリアの白地図を使って管理していたわけです。その白地図には、病院やデング熱診断をされた人の住所が丸いシールでプロットされていました。
これまでは地図を見ながら過去の経験と照らし合わせて感染が拡大しそうなエリアを判断し、診断キット等の事前配備や殺虫剤散布することを行政官が判断する、いわゆる勘の世界です。
AIME社のオフィスにはこの白地図がまだ貼り付けられています。
このような従来手法に代わって、衛星データを活用した新システムを導入する際に本当に実現できるのかといった疑問が当初は多く生じていたようです。
しかし、予測精度が高まってくると医療資源の最適配分や人の健康に貢献するという実感が次第に持たれるようになったそうです。
— 新しい技術はなかなか社会実装されないと聞きます。どのようにしてAIME社のサービスは10ヶ所の地域へと導入が進められたのでしょうか?
小柴:AIME社の創業チームは、元々シンギュラリティ・ユニバーシティの出身で、プエルトリコ(AIエンジン系)やマレーシア(疫学・公衆衛生)、アメリカ等のメンバーで構成されていました。
メンバーはそれぞれ聡明で、柔軟であっため、社会に受け入れられるためにどのようなチーム編成をすべきかということや、足りないところを埋めにいくにはどのようにすべきか、ということを早く判断しながら動けたことが一つの要因として挙げられると思います。
また、マレーシアの行政側(州知事や保健当局のトップ)が積極的に協力したことも大きな要因でしょう。
後にAIMEの創業者がマレーシアの保健大臣のヘルステックアドバイザーのポジションに就任するなど、変革を国として受け入れる土壌があったことも大きいと感じました。
おそらく、このような動きが組み合わさることで、今までの規制を柔軟に変更しながら新しい技術を導入することに繋がったのではないかと捉えています。
— とても素晴らしい取り組みのように感じます。衛星データを活用することによって、途上国の保健医療分野にどのような変化が起こるのでしょうか?
畠山:途上国だとそもそもデータが不足しているため、気温や大気汚染といった環境因子による健康への影響を見るには限界がありました。
もう一つは途上国だと保健データはヘルスワーカー等を通じて診療所から上がってくるのですが、アナログな作業になっているために、取得したデータが閲覧可能になるには数ヶ月かかっていました。
そのため、感染状況はすぐにわからず、できたとしても事後評価にとどまっていました。
しかし、衛星データのように準リアルタイムなデータ取得が可能になると、これまでできなかったリスク予測みたいなところが可能となっていくことが期待されています。
小柴:取り組みを進める上で、衛星データを組み合わせる観点は重要です。地上で取得するデータと衛星データを掛け合わせた先に、今までにない価値が生まれることに面白みを感じています。
10年以上前の話ですと、ウェザーニュースさんがエリアごとの天気予報をスマホでフィードバックさせていた話を思い出します。
同社はこの取り組みによって地上データを多く取得できたからこそ、高精度な天気予報を現在提供できているのではないかと思っています。
実用化を促進するために精度を向上する観点からも、新たな価値を創出する観点からも、このような工夫がポイントだと感じています。
地上データをいかに蓄積し、衛星データ等と組み合わせられるようにするか。そしてこのようなことを考えられる人材が今後すごく重要になるのだと思います。
そのためにも、様々な関係者の参画が重要だと感じています。
— 衛星データが貢献できそうな領域がいろいろとありそうですね。貴社では衛星データを利用した取り組みをインドネシアで始めようとされていると先ほど仰っていましたが、もう少し詳しく教えていただけますでしょうか?
小柴:
インドネシアでは気候変動や大気汚染は大きな問題であり、首都ジャカルタの気温上昇率は世界平均を上回っている現状があります。PM2.5濃度も年々増加し、2021年のジャカルタは年平均39.2μg/m3(世界首都ワースト12位)で、WHO基準(5 μg/m3)を約8倍も上回っています。
気温や大気汚染が心疾患や呼吸器疾患などの既存疾患のリスクを増悪させることはすでに証明されており、インドネシアでも上記疾患の死亡率は年々増加傾向にあります。結果として、ジャカルタでは大気汚染により最大4年の寿命が喪失されているとの報告もあるのです。
そこで、大気汚染や気温を監視するために地上・衛星データを活用することで、特定の病疾リスクを予測する気候変動関連疾患の早期警戒システムを構築できないか、と考えているわけです。
ただし、現地ヒアリングの結果、いきなり衛星データを利用できそうにないことが分かっています。
というのは、疾患情報や地上の大気情報がそもそも蓄積されていないためです。そのため、このような地上データを収集しつつ、衛星データを組み合わせることを進めていきたいと思っています。
ジャカルタでの実証で有効性を確認できたら、他の国・地域にも展開していきたいと思っています。
— ありがとうございます、こちらもとても面白そうな取り組みですね!最後に今後に向けてのメッセージをいただけますか?
小柴:2つあります。
ひとつ目は、日本国内の地方で衛星データ活用が検討されてきている動きと、今回我々がインドネシアのジャカルタで行う実証事業がクロスして新たなプロジェクトが生まれる素地が作れると面白いと思っています。
衛星データ活用といっても、データサイエンティスト等の専門人材が日本に潤沢に存在しているわけではないと感じています。
うまく国と国との連携を通して、それぞれの貢献を促し、利益を享受できるような仕組みを作れないかということに関心があります。
ふたつ目は、今回インドネシアのジャカルタという限られた地域で衛星データを活用した健康リスクアラートシステム開発に挑戦するのですが、特に温暖化の文脈だと、一国がもたらした影響が国境を越えて周辺国にも影響を及ぼしてしまいます。
そういう意味でASEANという地域においては、例えばマレーシアやフィリピン、タイ、シンガポール等、国をまたぐようなプロジェクトとして今回考えているものを拡大していくことに一つ価値があると思っています。
つまりはBeyond bordersで考えていく視点が必要だと思っています。プラネタリーヘルスやグローバルヘルスに関連した保健医療分野での衛星データ活用の具体的な例ってありますか?と問われた時にグッドプラクティスの一つとして我々の取り組みを示せるようにしていきたいと思っています。
— 小柴さん、畠山さん、ありがとうございました!
編集後記
恥ずかしながら私はプラネタリーヘルスという単語を知りませんでした。今後自然と広まっていきそうな概念ですね。地球全体を観測し続けている衛星データとの相性も良さそうだなと感じました。私たちの行動が地球にどういう影響を与えているのかをまず把握できるようになることで、どのような対策が必要となるのか考えやすくなるのだと思います。
なお、異業種から衛星データの活用を試みているMURCが主催で、異業種からの衛星データ活用ビジネスへの挑戦というテーマでのオンラインセミナーを2023年1月19日と4月6日に開催されるようです。
プラネタリーヘルスに対して衛星データをどのように使うのか興味を持たれた方はぜひ参加してみてはいかがでしょうか?