なぜ月面着陸はテレビ中継できたのか?アポロ計画の天と地を結ぶ地上局
アポロ11号の月面着陸50周年を記念した連載企画の第2回目では、宇宙を見上げる眼差しをいったん地上に戻し、アポロ計画の地上局に焦点をあてます。
アポロ計画の地上局~月の映像がお茶の間に届くまで~
映画『月のひつじ』にも登場するオーストラリアのパークス天文台
実際に行ってきました!パークス天文台の訪問レポート
パークス天文台から約100km北にあるナロマイン航空博物館
ナロマインで出会ったバズ・オルドリン宇宙飛行士
1969年7月20日。これは人類が初めて月面に降り立った日です。
アポロ11号の月面着陸50周年を記念した連載企画の第2回目では、宇宙を見上げる眼差しをいったん地上に戻し、アポロ計画の地上局に焦点をあてます。
当時、人類初月面着陸の様子が世界中でテレビ中継され、世界人口の5分の1にあたる約6億人が食い入るようにその映像を見ていました。月のリアルタイムな映像はどのように地球まで送られてきたのでしょうか?また、アポロ10号ではすでに司令船からのカラー映像中継が実現していたにも関わらず、なぜアポロ11号の月面着陸では白黒にせざるを得なかったのでしょうか?
2007年に登場した民間による月面探査競争Google Lunar XPRIZEの賞金獲得条件にさえ、無人探査機を月面に送り「高解像度の動画と写真データを地球に転送すること」が掲げられています。それほど高度な技術を要する宇宙と地上間のデータ転送は、50年も前にどのように実現されていたのか、アポロ計画で張り巡らされていた地上ネットワークに迫ります。そして、テレビ中継映像を受信したオーストラリアにあるパークス天文台からの現地レポートもご紹介します!
アポロ計画の地上局~月の映像がお茶の間に届くまで~
ミッションを成功に導くためには、宇宙船や宇宙飛行士の状態を遠隔から把握し、宇宙と地上間の意思疎通が不可欠です。主に1990年代までNASAで使われた、「音声」「テレメトリー(宇宙船や宇宙飛行士の状態を知らせるデータ)」「映像データ」をほぼリアルタイムに伝達する地上ネットワークはNASCOM(NASA Ground Communications System)と呼ばれていました。地上局がマイクロ波中継、電線、潜水艦ケーブル、高周波伝送、通信衛星を経由したネットワークで繋がれている様子はまるで世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようです。
アポロ計画で使われたネットワーク「MSFN(Manned Space Flight Network)」は、アメリカ初の有人宇宙飛行計画のマーキュリー計画、2回目の有人宇宙飛行計画のジェミニ計画、有人宇宙実験室のスカイラブ計画も支えたネットワークとして特に知られています。のちにNASCOMに統合されたアポロ計画のMSFN、通称「アポロネットワーク」は14の地上局、4機の船舶(Mercury、Redstone、Huntsville、Vanguard)、8機の航空機で構成されていました。
月面着陸のテレビ中継映像データはMSFNを使って、オーストラリアにあるパークス天文台で受信されたあと、人工衛星を経由して太平洋を越え、アメリカテキサス州ヒューストンのミッション管制センターに届いていました。月面からの映像データが辿った経路を見てみましょう。
アポロ11号からの信号は、主に3つの電波望遠鏡を切り替えて受信されていました。
1. オーストラリア・パークス天文台、直径64メートル電波望遠鏡
2. オーストラリア・ハニー・サックル・クリーク追跡ステーション、直径26メートル電波望遠鏡
3. アメリカ・ゴールドストーン深宇宙通信施設、直径64メートル電波望遠鏡
月面歩行の最初の8分間の映像は、2.と3.を使って受信されましたが、パークス天文台からの画質があまりにも良かったため、残りの2時間半は1.の映像データが使用されました。オーストラリアで放送された映像には遅延がありませんでしたが、ヒューストンを経由して世界に配信された映像には6.3秒の遅延が含まれていました。0.3秒はオーストラリアからアメリカの通信衛星による遅延、6秒は万が一宇宙飛行士になにかあった際に対応するための時間猶予をミッション管制センターが追加したものでした。
日本では月面着陸の映像が日本放送協会NHKで放送されました。そのときの瞬間視聴率はなんと68.3%(NHK調べ)だったとか!
アポロ11号では月着陸船の重量制限が厳しかったため、カラー撮影をできるビデオカメラを搭載することは叶いませんでした。実際アポロ11号で使われたビデオカメラは3.29キログラムでしたが、カラーの信頼性が高いものは当時約100キログラム以上もしたのです。また、白黒データは通信の帯域幅を軽減することができました。
電波望遠鏡は当時、映像データと共にニール・アームストロング船長の心拍数も取得していました。月面着陸時のニール・アームストロング船長の心拍数は112bpm!(安静時はおよそ60~70bpmが平均)映像データと共に、月面着陸時の緊張とドキドキも、地球に送られてきていたのですね。
映画『月のひつじ』にも登場するオーストラリアのパークス天文台
月からの映像データを2時間半も受信したパークス天文台。実際、月面着陸時の運用の様子を描いた映画『The Dish(月のひつじ)』(2000年)の舞台としても使われています。パークス天文台建設は、オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO)が抱える事業の一つで、1961年に完成しました。CSIROは電波望遠鏡以外にも、コンタクトレンズ、“Wi-Fi”の名で知られるWireless-LAN技術、海洋調査船INVESTIGATOR、ポリマー紙幣などの研究開発を手掛けています。
アポロ11号の月面着陸に向けて、電波望遠鏡の電源が落ちたときは手動操作で望遠鏡を操作できるように技術者は訓練されていました。映画では月面着陸の途中でコンタクトを失っていますが、それは脚色で、実際は継続的に映像が受信されていました。望遠鏡の運用安全設計は風速時速25キロメートルですが、月面歩行時には時速110キロメートルを記録したエピソードが有名です。
テレビ中継映像受信の観点から月面着陸の時系列を見てみましょう。月面着陸後、宇宙飛行士が月面で船外活動(EVA)を行うまでには約18時間も掛かっています。当初、船外活動はもっと早く予定されていましたが、宇宙服を着る時間と月着陸船の与圧調整に想像以上に時間を要したそうです。本来ならアメリカのゴールドストーンの電波望遠鏡が大活躍するはずでしたが、スケジュールは後ろ倒しになり、オーストラリアからの観測が最適なときに月面歩行が行われたのでした。
実際に行ってきました!パークス天文台の訪問レポート
ここからは、月面歩行のテレビ中継当時に大活躍をしたオーストラリアのパークス天文台から現地レポートをお届けします!
ビジターセンターにはアポロ11号をはじめ、アポロ12-17号、ハレー彗星を観測したジオット衛星、木星を観測したガリレオ衛星、天王星と海王星を観測したヴォヤジャー2号の運用に関するパネルが展示されています。
展示室には、CWAS(Central West Astronomical Society)が開催するアストロフェスの天文写真コンテストの受賞作品約30点も飾られていました。どれも息を呑むほどの美しさ!優秀な作品には世界で有名な天文写真家の名を冠したデイビッド・マリン(David Malin)賞が贈られます。(美しい天文写真を見る>デイビッド・マリン賞公式サイト)
外に出ると、電波望遠鏡のお皿の部分に使用されているパネルやロック界のスターであるエルビス・プレスリーとコラボしたカフェなどがあります。
パークス天文台には、「電波天文学の父」と呼ばれるグロート・レーバー(Grote Reber)氏の遺灰も眠っています。1937年に自作で電波望遠鏡を製作し、天の川より電波が放射されているとする理論を実験で検証した人物です。1940年代には全天の電波周波数分布を示す地図も作成しました。40台半ばでアメリカからオーストラリアのタスマニア州に移住し、電波天文学の発展に貢献した彼の遺灰は、パークス天文台に限らず、アメリカ、イギリス、オランダ、カナダ、フィンランド、プエトリコ、ロシアの電波天文台施設にも埋められています。電波天文学による宇宙の謎の解明を、各地で温かく見守ってくれているのですね。
パークス天文台から約100キロメートル北にあるナロマイン航空博物館
パークス天文台から車で約1時間離れた場所に、世界中のグライダーパイロットが集まるナロマイン(Narromine)滑空場という飛行場があります。北半球にあるヨーロッパが冬のとき、南半球にあるオーストラリアは夏のため、日本の秋から冬にかけた時期、ナロマインには1年中フライトを楽しもうと考えるグライダーパイロットがオランダ、スイス、スペイン、ドイツ、チェコ、中国などの国々から集まります。私が出会ったオランダ人のカップルは2人とも旅客機B767機長で、普段はバス(ジャンボジェット機)を運転していますが、毎年お正月の休暇にはスポーツカー(グライダーの高性能機)を運転しに行くくらいの感覚でナロマインを訪れているとのこと。気候条件などの最適な環境を地球規模で探し、地球規模で遊ぶ彼らの考え方にいたく感動しますね!
滑空場の近くにあるナロマイン航空博物館を訪れました。ナロマイン飛行場は1939年、王立オーストラリア空軍(RAAF)の現地調査を受け、1940年から軍の飛行訓練地として使われました。第二次世界大戦、ドイツと戦うために王立オーストラリア空軍はここで約2850人のパイロットを養成しました。そのなかでも、当時差別に打ち勝った、オーストラリアで唯一の先住民族アボリジニ戦闘機パイロットのレン・ウォーターズ(Leonard Waters)准士官が有名です。
博物館には飛行場の歴史、世界で唯一飛ぶライトフライヤー号のレプリカ、高度計やブラックボックスといった計器、昔の日焼け止め、2015年にナロマインで開催されたグライダーのジュニア大会などの展示が飾られています。
1967年、全エアラインの航空機にブラックボックス装着を義務付けたのはオーストラリアが初でした。
オーストラリアで初の女性商業パイロットとして活躍したのはナンシー・バード(Nancy Bird)氏です。2008年、彼女の功績を称え、カンタス航空に納入されたエアバス社A380の機体は“Nancy Bird Walton”と命名されました。
次にご紹介するのは、シェイクスピアの『The Tempest(あらし)』で空気の妖精アリエルが発する台詞の一部が描かれているベニヤ板です。「ごきげんよう旦那様 やってまいりました あなたの御命令とあれば何でもいたします 空を駆け回り、海を泳ぎ 火の中に飛び込み 雲に乗り なんでもあなたさまのいいつけどおりに 全力を尽くします」の”To ride on the curled cloud(雲に乗り)”が引用されています。1950年、あるパイロットがナロマインで高度記録に挑み、墜落した機体から回収されたものです。1万フィート以上の飛行では酸素ボンベが必要にも関わらず、そのパイロットは酸素ボンベを携行しませんでした。命は助かったものの低酸素症に苦しみ、やがて機体を墜落させてしまいます。このベニヤ板は、パイロットの挑戦に対する意気込みを示した言葉でした。
・ナロマインで出会ったバズ・オルドリン宇宙飛行士
数々の展示のなかでも注目に値するのが、世界で唯一飛ぶモデルA・ライトフライヤー号のレプリカです。モデルAは最初のモデルlllから発展したもので、はじめて量産され、乗客を乗せ、軍で使われ、イギリス海峡を横断した機体でした。当時ライト兄弟は、イギリス、ドイツ、フランスの工場で製造契約を結び、アメリカ陸軍通信部隊(US Army Signal Corps)に2機の機体を納入しました。
レプリカ製作プロジェクトは1999年に始動し、政府の資金援助、シドニー大学、国内の請負業者、市民ボランティアの協力を経て、無事完成を迎えました。ライトフライヤー号のレプリカが初飛行を遂げたのが、ナロマイン飛行場だったのです。
2005年10月、ライト兄弟の動力飛行から100周年を記念するナロマインのエアショー“Spirit of Flight”で、世界で唯一飛ぶライトフライヤー号を操縦したのは、なんとアポロ11号にも搭乗し、2番目に月面に降り立ったバズ・オルドリン宇宙飛行士!「いやぁ、これは自慢になるね」とご満悦の様子。
地球から月まで往復し、飛行の最高峰を経験しているにも関わらず、75歳になっても飛ぶ気概を持つバズ・オルドリン宇宙飛行士の好奇心とエネルギー。本当に飛ぶことが好きなのが伝わってきますね。
アポロ計画では宇宙船自体も複雑なシステムでしたが、宇宙と地上間の通信を支え、各システムを繋ぐ地上のネットワークも巨大なものでした。今回はそのなかでもテレビ中継映像を受信したパークス天文台と、オーストラリアとアポロ計画の接点を深掘りしました。
(参考)
・On Eagle’s Wings: The Parkes Observatory’s Support of the Apollo 11 Mission, John M. Sarkissian, 2001
・Apollo Television、Bill Wood (former Apollo MSFN station engineer), 2005
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